古い商店街を眺めながら歩いていた。明治の香りを残す石畳の道を行き交う人々の下駄の音が軽やかに耳に届く。大通りへ出て、人力車と馬車が行き交う賑やかな通りを進んでいると、古書店の並ぶ一角で懐かしい声が聞こえた。
「鈴凪さん?」
振り返った私の目に映ったのは、書生時代によく図書館で出会った
「慎吾さん……? こんなところでお会いするなんて……お久しぶりです」
私が微笑みかけると、慎吾の表情はわずかに和らいだ。けれど、慎吾の瞳の奥には見覚えのない緊張が宿っている。何年も会わないうちに、どこか変わってしまったように感じた。
「やっぱり鈴凪さんでしたか。お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
慎吾は軽く頭を下げたが、視線は私の周囲を警戒するように動いていた。
「ところで、鈴凪さんがご結婚されたと風の噂で聞きました。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
唐突に結婚の話をされ、私は顔が熱くなった。お礼を言いながら、気恥ずかしさに早々にその場を去ろうとするも、慎吾の次の言葉に私は困惑した。
「それにしても、随分と急なご結婚だったのですね。相手の方の素性は、ご存知なのですか?」
「……素性、と申しますと?」
「朝霞理玖という男について、まさか君は、本当に何も知らないのですか?」
慎吾の声音が急に低くなり、私は思わず身を引いた。以前の穏やかな書生の面影は完全に消え、まるで別人のような鋭さを帯びている。
「慎吾さんこそ、朝霞様のことを何も知らないのに、そのような言い方をなさるのはなぜですか?」
思わず私も反発するような口調になってしまう。理玖の優しさを知っているからこそ、この問いかけに素直に頷けない。
慎吾は周囲を見回してから、声を潜めて続けた。「僕は今、ある組織に
書斎で夜を明かした理玖は、外が明るくなったことに気づいてようやく顔を上げた。一睡もしていない目は赤く、疲労で霞んでいる。「鈴凪……」 彼女の名前を呟くと、胸が締め付けられた。さっきの会話を何度も思い返しても、もっと上手く説明できたのではないかという後悔ばかりが残る。『本当の私を愛してくれる人は、いるのでしょうか』 鈴凪の問いかけは、彼女自身に向けられたもののようだった。中庭に立つその姿は、まるで霧の中に立つ迷子のように、頼りなく見えた。『一度でもいいから、朝霞様が私自身を見てくれたことがあったのですか』 あの時――理玖は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。間違いなく鈴凪を見ていた。ただ、百合の面影が浮かんでいたのも事実だ。 その事実を、どう言葉にすれば良かったのか。それが分からない。 自分の過去が、今の幸せを壊してしまう皮肉を感じていた。説明すればするほど、鈴凪を傷つけてしまう。この状況を、どう修復すればよいのか見当もつかなかった。 二人の間に横たわる溝は、想像以上に深かった。「もう、手遅れだろうか……」 理玖がつぶやいた言葉は、朝の静寂の中に重く響いた。 書斎を出ると、慌てた様子の華が駆け寄ってきた。「旦那様、たった今、奥様がお屋敷を出ていかれました」 華の言葉に理玖は愕然とした。あれからまだ数時間だというのに、まさか、こんなにも早く理玖から離れてしまうなどと、考えてもみなかった。「そうか……」「散歩に出ると仰っていま
部屋に戻った私は、畳の上に崩れ落ちた。 涙が止まらなかった。理玖の告白、妖としての正体、そして百合という女性の存在――すべてが心の中で渦を巻いていた。「私は……私は一体、何なの」 私は膝を抱えて震えていた。自分というものが、まるで霧のように曖昧に感じられた。朝霞鈴凪として生きてきた数カ月間は、すべて偽りの上に築かれたものだったのか。理玖の優しさも、穏やかな日々も、私が理玖を慕う気持ちさえも――すべてが百合という女性の影に過ぎなかったのだろうか。 私がただの、生まれ変わりだから――?「ただの代替品……」 私は誰かの身代わりとして選ばれ、愛されていたという事実が、私の存在そのものを否定されたような気持ちにさせた。頼れる人のいない、たった一人だった時の寂しさよりも辛かった。 窓の外で、白み始めた空が明るさを増していた。けれど、私の心の中は、深い闇に覆われたままだった。 気がつくと、私は僅かな荷物を手に部屋を出ていた。足は自然と屋敷の外へ向かって行く。契約結婚とはいえ、理玖の妻として過ごした日々が、今の私には重すぎて辛い。 草履を履き玄関を開く音が、静寂の中で妙に大きく響いた。「奥様? こんな早くからどちらへ行かれるのです?」 華の声が背後から聞こえたが、私は振り返らなかった。「少し……散歩に出ます」 それだけ言って、私は屋敷を出た。 振り返ると、薄暗い屋敷の奥で、書斎の明かりがまだ灯っていた。あの部屋で、理玖は一人、何を考えているのだろうか。 門を出て数歩、歩いたところで私は振り返った。朝霞邸の大きな屋根が、靄の中にぼんやりと浮かん
私は溢れる涙が止まらないまま、抑えきれない感情をすべて口にした。「最初は契約結婚だと思っていました。お互いに割り切った関係で、一年で終わるものだと。それなら、私も心の準備ができました。でも、これは違います。私は最初から私として見られていなかった。朝霞様にとって私は、失った恋人の代替品でしかなかった」「鈴凪、それは誤解だ」 理玖は否定するけれど、つい今しがた、身代わりかと聞いた私にはっきりと『そうだ』と答えた。それは誤解などではない、理玖の本当の思いじゃないのだろうか。「誤解?」 私は振り返り、涙を流しながらも毅然として見えるように、しっかりと理玖を見つめた。「では、聞かせてください。朝霞様が私の名前を呼んでくださる時、傷つけたくないと仰ってくださった時、優しい言葉をかけてくださった時、本当に私を見ていたのですか」 私の問いかけに、理玖は答えなかった。空を見つめる目は、どこか遠くを見ているように感じる。「答えてください。一度でもいいから、朝霞様が私自身を見てくれたことがあったのですか」 理玖は苦しげに目を閉じた。一言も発することなく、ただ俯いている。「なかった……ということなのですね……」 私は理玖の沈黙を答えとして受け取った。空はもう明け方近く、わずかに白み始めている。結局、一睡もできないままで、私は心だけでなく体も疲弊していた。「鈴凪……」「私は、百合様ではありません。私は鈴凪という、どこにでもいる普通の女です。美しくもなければ、特別な才能があるわけでもない。ただ、少しばかり頑固で、思ったことをそのまま口にしてしまう、そんな女です」
理玖が屋敷へと向かいかけた時、私は思わず引き留めた。「待ってください」 月光の下で振り返った理玖の表情は、寂しさの影を落としている。「もう少し……百合様とのことを、教えてください」 理玖の足が止まった。その名前を口にされることを、どこか覚悟していたかのように眉をひそめている。「聞きたいのか。辛い話になるが」 理玖の言葉に私は頷いた。「はい。私は何も知らないまま、これから半年以上もの間、朝霞様の隣にいるのでしょうか。それでは、あまりにも……」 私の言葉は最後まで続かなかったけれど、その想いは理玖に届いていたようだった。理玖は深い溜息をついて、再び中庭の中央に戻った。池のほとりの石に腰を下ろし、月を見上げる。「座るといい。長い話になる」 私は理玖から少し離れた場所に座った。石灯籠の影が二人の間に落ちている。「水無月百合……私が唯一愛した人間だった」 理玖の声に、深い愛おしさと同じだけの悲しみが込められていた。「今から百五十年以上も前のことだ。私は人間の姿で椿京の街を歩いていた。妖として生きることに疲れ、人間の世界に憧れを抱いていた頃だった」 私は何も言えずに、ただ耳を傾けていた。「桜の季節だった。狐燈坂の九十九段を上がった神社で、巫女として勤めていた。それが百合だった」 理玖は当時のことを思い出しているのか、空を見上げてから目を閉じた。&nbs
部屋に戻ってから、どれほど時が経っただろうか。 窓の外で夜風が枝を揺らす音に混じって、微かに足音が聞こえてくる。理玖の歩き方だった。その足音は私の部屋の前で止まり、やがて小さく襖を叩く音がした。「鈴凪、起きているか」「はい……」 平静でいようと思うのに声が震えてしまう。理玖の声は先ほどの苦悩に満ちたものとは違い、どこか決意を固めたような響きがあった。そして口調はやはりこれまでのものとは違っている。「中庭に来てくれないか。鈴凪に見せたいものがある」 私は迷った。今夜、これ以上の真実を知るのが怖かった。もう、何も聞きたくないと思っているのに、理玖の声に宿る静かな意志に、断ることができなかった。「わかりました。すぐに参ります」 羽織を直し、私は部屋を出た。理玖は廊下で待っていた。月光に照らされたその横顔は、さっきまでとどこか違って見えた。普段の穏やかさの奥に、何か底知れない深みが宿っているように思えた。 二人は無言で中庭に向かった。朝霞屋敷の中庭は、四季の花々が同時に咲く不思議な場所。桜と梅、菊と牡丹、藤と山茶花が、季節を超えて美しく咲き誇っている。 月は中天に昇り、庭園全体を銀色の光で包んでいた。池の水面が静かに月を映し、石灯籠の影が地面に幽玄な模様を描いている。「美しい夜だ」 理玖は中庭の中央で立ち止まった。「こんな夜にこそ、真実を語るべきなのかもしれない」 私は理玖から少し離れた場所に立った。心臓の鼓動が早くなっているのを感じる。「朝霞様……何を見せてくださるのですか」
深夜の朝霞屋敷は、静寂に包まれていた。私は寝室で布団に横になっていた。天井を見つめながら、浅い眠りと覚醒の境界を彷徨っている。理玖との結婚生活が始まって一カ月余り。未だに井戸で見た映像がふとした瞬間に頭を過る。「眠れない……」 私は諦めて身を起こし、薄い夜着に羽織を重ねて部屋を出た。廊下に足音を響かせないよう、そっと歩を進める。月光が障子を透して、廊下に淡い光の格子を落としていた。 ふと、主座の間の方から低い声が聞こえてきた。理玖の声だった。誰かと話しているのだろうかと思ったが、返事が聞こえない。 鈴凪は戸の影に身を寄せ、息を殺して耳を澄ませた。「百合……」 その名前を聞いた瞬間、鈴凪の心臓が跳ね上がった。あの、月喰いの井戸で見た女性の名前。理玖の口調には深い愛おしさと、同じだけの痛みが込められているように感じた。「もう限界だ。彼女にこれ以上嘘をつき続けることはできない」 理玖の声は普段の穏やかな調子とは違い、苦悩に満ちていた。酒器が畳に置かれる音が、静寂に小さく響く。 私は戸の隙間からそっと中を覗いた。月明かりが差し込む主座の間で、理玖は一人、盃を手に座っていた。その横顔は、私が知る優雅な夫の表情ではなく、まるで長い間重い荷物を背負い続けた旅人のような、深い疲労を湛えていた。「契約だけの関係のはずだった……ちよとの約束のためだけの……」 理玖は月に向かって呟く。「だが、彼女の笑顔を見るたび、あの日々が蘇る。彼女の手に触れるたび、君の温もりを思い出してしまう」 私の胸が締めつけられた。彼